金運もカルマの法則と似ています!
こんにちは! いつもありがとうございます。 ありがとうございます。 先日書いたメルマガとブログで多くの方がメールにて同じ様なことを考えていたので、ためになるトピックでしたということでした。 お返事を書いていない方へも、メールをありがとうございます。 ありがとうございます。 さて、この「お金」に関してのことを書こうとすると多すぎてどこから書いて良いか迷ってしまします。精神的なスピリチュアリズム、そして、現実的なマネー。 そのマネー、お金ですが、フランスの諺に「金は良き召し使い、そして悪しき主人なり」というのがあります。また、「金は麻薬なり・・・」という諌言もあります。 お金と言うものは、程々に入ってきて、ある程度、適当に循環し巡り巡っている間は良いのですが、その循環にも物足りずに人間という者は欲を出してしまい、「もっと、もっと」と餓鬼状態の地獄界の魂達のように人の生き血を吸っても吸い上げても、身体は痩せていているが、それでも、まだまだ足りないから、どうにかこうにかしてお金が欲しいと願うこころは生き地獄でしょう。お金は麻薬性があります。コントロールしているうちは銀行口座にお金が増えて、個人的な夢の為にお金を貯め、そして、その夢の為に努力することは大変良いチャレンジでしょうが、麻薬性がありますから、お金に対する感覚がズレてしまうと、麻痺してしまいます。 どこの国でも90年代ぐらいから精神世界に興味を持つか、それとも物質社会に興味を持つか、二者選択にてキリスト教の聖書で中での「光の子 ケモノ」へと分裂が始まっています。すでに光の子の予備軍としてこの世知辛い時代に人の為に生きることを願う人は「お金」は生きるうえでのひとつの道具に過ぎないでしょうが、そのお金を神様のように信仰しても本当の意味での「生きる」を理解することは出来ないことを少しは理解しているでしょう。 バブル期の時代であれば、「金運、金運」と何でもカンでも金運信仰をすることによって「お金があれば幸せ」になれると信じ、人気作家でさえも金運信仰の本を出すことでさらなる富を得た人達も多かったでしょう。 最近では「金運」という本よりも「スピリチュアルやヒーリング、精神世界」という名で実は金運信仰とあまり変わりないことを言葉を摩り替えて書いている人達もいます。 ご先祖様、守護霊様にお願いしても、金運が良くなることはないのです。 金銭哲学は神頼みではなく、自分自身の哲学と同じですから、浪費癖や節約などをすることで、自分の手元にお金が貯まります。でも、お金を貯めるだけであれば、使わなければ良いのですが、現世でケチケチしておめでたい日でもご祝儀を渋る人さえいます。 いくらお金持ちでも自分の為の洋服や宝石、さらには豪華な食事までしても、人の為に出すお金は1円でも惜しいと思う人の方が今の世の中多いのではないでしょうか。 この手のタイプは不思議なことに時期が来るとお金の方から逃げて行くこともあります。 人に嫌な思いをさせて貯めたお金などを使って株をしたり、投資をしても、10年、20年ぐらいは逃がさないように鵜飼いの主人のようにきっちり保持しているようです。 ある知人の例ですが、ある中年男性もかなりの富がありました。クルザーも保持し、お金も沢山あり、奥さんも子供もいましたが、ある日、若い女性と出会い、1円もお金を妻子には渡さずに無理やり離婚し、すべてのお金では足りず、借金をし再婚生活を維持しておりましたが、最後には自殺してしまいした。あれだけのお金をどうやってたった5年で使い切ることが出来るでしょうかと周りも前妻に対して気の毒に思いました。 これはお金の持つ本当の威力を知らないから、お金に弄ばれたことになります。 そういう意味では日本では「金運信仰」で有名なのは稲荷信仰が上げられます。稲荷尊は五穀を司る倉稲魂を祀ったものですが、御食津神(みけつかみ)を三狐神(みけつかみ)と付会(ふえ)して、稲荷の神の使いとする俗信から、「お狐様」の俗称で親しまれています。 しかし、オキツネさまはつまりこっくりさんと同じです。動物霊の神様ですから、求めるモノを差し出す代わりに違うモノを失うこともあるでしょう。 さらにはお金持ち(成金)にさせておいて美味しい思いや贅沢をさせて欲望を満たし、最後には奈落の底まで落とすこともあります。 動物霊と言いますが、実は低級霊に弄ばれているだけなのです。 お金、お金と神様のように朝から晩まで拝み続けて、お金はやって来るでしょうか。 そのお金がやって来たとしても、一時鎬ではないでしょうか。 こうした金運信仰の一種ももちろん信仰であり、神聖なものに対する畏怖からこれを行なうのは構わないのですが、お金、お金と毎日、寝ても覚めても思うために、お金持ちになる為に、金運信仰をして、神棚を用意し、これを拝むと言う露骨な表れ方は神聖なものなんでしょうか。そして、その大金が出来たら本当に幸せなのでしょうか。 ここから先は少し先日書いた続きになりますが、お金にも人生にも「巡りの法則」があります。お金と言う生き物は、自分に正直な人に集まります。一方どうして、お金を穢らしいと考えている人の処には、避けて通ります。これこそが、心の表出であり、心像化現象が無意識のうちに働いているからです。 人生では「巡りの法則」もありますが、「類は友を呼ぶ法則」さらに「異は異にする法則」があります。お金を素直に欲しいと考え、それについて、働いた時間の対価にてお金を頂きます。その時に一生懸命働いたお金ですから、有難いお金です。人によってはお金を穢いと思う人は「お金がなくてもいい」または「お金に興味はない」と思えば、その深層心理が作用して、いくら齷齪働いても身につかずして、お金が逃げて行くときもあります。 お金がないと嘆いている人の周りをみていると、無駄なガラクタを買い込み、衝動買いから安かろうというモノを考えないで買い込み、家の中や外でごろごろしている人もいます。本当のお金を得ようとする人は、まず正直であり、お金を素直に理解しなければいけません。お金に拘り過ぎず、そして、素直で明るいところへお金は戻って来ます。 人間関係でもいつも、いつもケチケチしている人と一緒に食事して、いくらその人の銀行口座に大金があったとしても、お零れどころか、お金があることを自慢するだけで一緒にいても楽しめません。生きたお金を使えるように日頃から1円にも感謝して使いましょう。 お金の威力を知り、「無知」からくる落とし穴に落ちないためにも、無知と不安と欲望の心を手放し、お金に対して感情的にならず、「徳分」を重ねましょう。 今度は「徳分」と「因縁」について機会があれば綴ってみましょう。 ありがとうございます。
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