旅は道ずれ 世は情け ♪
こんにちは! いつもありがとうございます。 ありがとうございます。 マイケルは今週一杯は病院にいるかも知れないですが、通常通りに鑑定もしております。忙しい方が気分的にも寂しくないかもと思っております。 バルコニーを掃除したり、植木に水をやったり、何やら、忙しい毎日です。 昨日のブログにて「精神と現実」のバランスのお話をさせて頂きました。 今日は、少し「般若心経」の最後の部分の「ぎゃ〜てい ぎゃ〜てい はらはらそう ぎゃ〜てい ♪」(漢字変換が出来ませんでしたので平仮名でよろしく。)教えを考えてみたいと思います。 「般若心経」は、一言でいえば、「空」の教えであると言われています。その、「空」とはどんな意味があるでしょうか。 鎌倉時代にあるお坊さんが、修業時代に昼も夜も座禅をしていました。夜中眠気の為に、後ろの壁に背中をもたれようとしたところ、あお向けにひっくり返ってしまいました。後ろに壁があると思ったが壁がなかったからです。その時、そのお坊さんは「ハッ !!!」と悟りました。 悟るということは「空に至る」ことであります。「空」とは、2つのものを一つにすることを言います。 私たちは、すべてに2つのものの中に生きています。2つのモノとは自・他、あるいは自己と対象というように、区別したり、差別をして考え、そこに「自分さえ良ければ・・・」という自我を生じて、「分別」を生むのです。そこには、他人よりよけいに得たいとする「所有」、他人より優位に立ちたいという「比較」、他人に勝ちたいという「競争」を生じ、失いたくないという「不安」が生まれ、苦しみと迷いの人生を歩み続けることになります。 このような不幸な生き方を離れ、失うことのない本当の幸せに生きるにはどうしたら良いかとなりますと、それは、2つのものを1つにして生きる、「空」の生き方であると言えるでしょう。 それは、自分と他人が一体になり、自分と対象が一つになり、自己と大自然が一つであれば、「自分さえ良ければ・・・」という自我はなくなり、得ることも、失うことも、多いも、少ないも、勝つことも、負けることもない、こころ安らかな世界が広がり、そのこころこそが「空」の教えであり、「般若心経」の要の教えなのです。 この自我のこころをなくして自己を見れば、すでに生まれたときから、多くの人や大自然から、支えられ、助けられ、幸せの真っ只中に、生かされて生きている自己が見つけられるでしょう。 そうすることで、すでに十分に恵まれている自己の中で、何をさらに求め、欲しがる必要があるのでしょうか。「足るを知る」ことで、やすらぎに生きることが出来ます。 そして、私たちは一日、一日の中で「ぎゃ〜てい ぎゃ〜てい 行こう、行こう」それでどこに行くかというと「はら つまり、真実の世界へ行くのです。」 「誰がその真実の世界に行くのでしょうか。ここが最後の言葉、はらそうぎゃてい・・・このそう(僧)という字は和合という意味です。ですから、皆で一緒に行くのです。」 これこそが、大乗仏教の大乗たる意味です。菩薩は正覚、つまり仏の悟り、そわかは成就すること、みんなで一緒に行き、仏の悟りを成就しようと言っているのです。 おばあちゃん、おじいちゃん、おねえちゃん、おにいちゃん、おじさん、おばちゃん、絶望した人も、泣いている人も、一人ぼっちも、黒い肌の人も、白い肌の人も、子供も赤ちゃんも、怒っている人も、優しい人も、みんなで手をつないで行こう! そう言ってくれているのです。大乗仏教の菩薩道を表した最高峰の言葉なのです。 「般若心経」の中での最高峰の言葉、空だ、無だ、色だの色々な漢文で三蔵法師さんがインドから中国へ、そして、禅の開祖達が日本へ持ち込んだ「般若心経」ですが、この最後の言葉が一番伝えたい部分なんです。 海底のどん底まで光を射してくれるのです。私たちはもう怯えて暮さなくても良いのです。 「すべてのものに感謝して生きることです。会うすべての人の中に仏のこころを見出して下さい。そして、謙虚に生きる、人に尽くすことに生きがいを持って下さい。そしてどうか、この与えられた生を慈しんで下さい。」 そういう意味では「旅(このでの輪廻転生)は道ずれ、世は情け」 一歩でも二歩でも、真実の幸せの世界に近づいて行きましょう。 その旅は一人でも多い方が楽しいでしょう。 読んで頂き、ありがとうございます。 ありがとうございます。
Comments