何事にも執着を持たないで、前に進んで行きましょう!
こんにちは〜!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
ちょっと、忙しいので明日の出発に向けて郵便物やら、洗濯、掃除、服はマイケルの方がアイロンは上手いので今夜やって貰ってと少しローカルな話です。どうも、昔から前の日に服やら何やらとスーツ・ケースに入れ込む性分なので、最後の最後まで空港に行って初めて、どこに行くのだったかな?と思う・・・。^−^
さて、多くの方々の激励のメールもとっても、とっても、励みになります。
そんな中でブログやメルマガを異国で読み、それまで自らの命を絶とうと思っていた人が、私の拙い文章で生きる勇気を貰えたとメールを頂くと、こちらこそ、涙が溢れて来ます。
どなたが読んで頂いているか、どんな影響をもたらしているか、書いている本人には分かりません。
ただ、ただ、スピリチャアルに興味を持つことで「愛と平和と感謝する」ことにて、一日でも長生きして欲しいと願います。
昨日のブログでリマソールの主教が大主教になれなかったことを書きました。このリマソールの主教をある人も応援しておりました。世界一のヒーラーの事を書いた著者さんでキリアコスもビデオでアメリカから応援していたので、彼もがっかりかな?と思っております。
しかし、キリストでさえも、多くの人々に「愛」を伝える伝道をしておりましたが、最後には12人の弟子のみでした。
ブッダも多くの弟子がいましたが、入滅する際には少ない数の弟子に看取られました。
一人の人でも命を絶つことを止めて頂けたことは、本当に感謝の賜物です。
ありがとうございます。
さて、しばらくここのブログも書けなくなります。
私はキリストの教えも、お釈迦様の教えもどちらも大好きです。メルマガに書いたことがあるかも知れませんが、禅の教えの中には多くの智慧が隠れております。とんちで有名な一休さんも禅の教えを多くの民衆へ語り継ぎました。
今、現在、世界中に存在するHPと呼ばれるサイトは1億以上あるそうです。
そんな一億以上あるサイトから、この私のサイトに共感を頂けるのも仏様の導きがあるからでしょう。
多くの精神世界本も溢れています。
しかし、本を読んだだけでは、マラソンする時の靴の紐の結び方だけを聞いて、マラソンに参加するようなものです。
来年にはさらに身近に感じで頂ける方法も考えております。(実行出来るかどうかも上の方々の導きです。)
ですから、多くの本を読んで、それでスピリチャアルを理解したことになりません。
本を読んだ。この本のマニュアルや方法論などにはこう書いてあるから、やってみようとやっても、うまく生きれないときがあります。
それは、その著者が体験したことを言葉で表現しているのであって、自分でもその体験をしてみないといけません。
この人生は、誰も手足だけや頭だけでは生きていけません。身体全体で精一杯生きて、初めて生きれるのです。
私の好きな道元さんは言っています。
「愚か者は車のながえを北に向けながら南に進もうと思うものである。」
これは21世紀になって多くの人々がさらに考えるときがあると思います。
では、どうしたら?この愚か者にならないで生きれるのでしょうか。
それは、まずは自分を知ることです。
そして、自分がどこに進みたいかはっきりと見極めることです。
それには座るのが一番です。
禅では座ると仏になれるといいます。
最高を求めずに一回きりの人生を終わらせるには本当に勿体ないことです。
仏教とは読んで字のごとしに「人間が仏になる教えです。」
仏教とは何でしょう?
古代ギリシャのキケロも言っております、「答えはすでに問題の中に含まれている」と。
昔の人が宗教を求め、死ぬ気で求めたのは「悟り」です。キリスト教、仏教でもこの悟りを開き、生きている間に仏になるということです。
これこそが「真理の体感」です。
と言っても、悟りは簡単で難しいものです。
厳しい修業をせずともこの悟りを得れます。
禅の教えを日本に持って帰った道元さんは中国のおじいさんと再会したときに、同じことを聞きました。
「文字とは何か?弁道とは何か?」と尋ねました。
4歳で文字を読み始めた道元さんでさえも、禅の修業とは、悟りとは?と長い時間掛かりました。
そのおじいさんに会って、そのおじいさんに「その後、お分かりになりましたか?」と聞かれたときに、「これまで思っていた場所とは違うところにあるのではないか?」とまで気づいたと言っております。
そこで道元さんは聞きました。「いかなるものを文字というのでしょうか?教えて下さい。」
するとおじいさんは「文字とは1・2・3・4・5すなわち一から十まで、この世にあるすべてのものです。あなたはおそらく経典などのみを文字と思っていらっしゃるでしょう。しかし、そうではありませぬ、森羅万象あますところなく文字です。至るところに教えがあるのです。」
「では、どのようなものを弁道と申されるか?」と道元さんがおじいさんに聞きました。
「弁道、すなわち仏道は厳しい修行のみとはかぎりますまい。真理の道はどこそこにあるのではなく、いたるところに道はあります。すべてが仏法を説きすべてが修業です。隠されている道は微塵もないのです。何もかもがもう与えられているのです。」
道元さん「修行は時と場所を選ばぬということか?」
おじいさん「さよう!私が長い間典座を勤めていたのは、それもまた大事な修業に他ならないからです。」
ここで私の好きなこのおじいさんの言葉「自分の修業は自分がやらねばだれがやりましょう。そして、今やらねば、いったい いつやりましょう。」
その後、道元は1年あまりの行脚に出て・・・。
その後、「身心脱落(しんじんとつらく)」しました。そして、大晦日に除夜の鐘をゴ〜ンとする場所、永平寺は道元さんが建立したお寺です。
興味があれば、道元さんの本は山のようにあります。有り難い教えは時代を超えても、有り難い教えです。
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では〜!宿題を差し上げましょう!
洗濯したり、お皿を洗ったりすることも禅の有り難い勉強です。お給料を貰う場所だけが仕事場ではないのです。
主婦の方はとっても家で修業が出来るのですから、有り難いことなのです。
日常のあらゆる行動を通じて、ひたむきに仏の道を理解出来るのです。掃除、洗濯、炊事、食器洗い!を通じて、日々、邁進(まいしん)出来るのです。
どうぞ、掃除、洗濯して自分についたほこりを落として行って下さい。
ありがとうございます。
では、無事にキプロスに帰った時に、書き込み致します。
ありがとうございます。
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