世界七不思議のペトラ遺跡旅行記
今年は久しく旅行していない中東に行くか、アフリカのモロッコに行くか悩みました。
モロッコに行くには、イタリア経由で行くのが、ここキプロスからだと好きな経由なのですが、モロッコのベストシーズンは10月半ば、イタリアはこの6月に行ったので、パフォスに引っ越す前にヨルダンに行く計画を立てましたが、色々と検索している間に、モーゼが十戒を受けた場所やパレスチナも含めて、エルサレムに行きたかったので、その後、機会がなく、エジプトに行ったりしている間に、シリアでの内戦も始まり、とうとう、中東に行く機会がないかな?と、思っていたのですが、やっぱり、なぜか?ペトラ遺跡を見に行きたいという気持ちが強くなり、世界七不思議の1つであるペトラ遺跡に行くことになりました。
旅と言うのは、宿探しから始まります。
パフォスの旅行社にヨルダンツアーを訊ねたのですが、皆さん、個人で行かれる人が多い様子でした。
ヨルダンはキプロスと同じで、電車がありません。
ですから、交通機関が車となります。
7月下旬に友人が3日間ほどペトラ遺跡と死海に行ったというので、交通手段はどうしたのか訊ねたところ、レンタカーを借りて、アンマン国際空港から、ペトラへ移動し、その後、死海に行ったという話を聞きました。
その時点で、ペトラ遺跡の宿泊先を探していましたが、10月半ばは4つ星、5つ星ホテルには、その彼らが泊まった値段では、1つ星ぐらいしかありませんでした。
ペトラ遺跡のゲートから徒歩で行けるホテルに予約を入れました。
3つ星ホテルで、レビューも良かったので、それにとても安いので、3泊が死海の1泊と同じ料金だったので、そこのホテルに泊まることに決めました。
その後、アメリカドルやヨルダンの通貨を銀行で手配して貰いました。
先進国よりも通貨が強く、驚きました。
予約先のペトラのホテルから連絡があり、空港へのタクシーでのお迎えを提案されました。
一番の問題が交通手段だったので、アンマンに1泊して、その後、ペトラに移動する為には、1日1本のバスがあるらしく、そのバス停に行くにはどうすれば良いかとか、悩んでいたので、料金も提示してくれたので、お願いすることに致しました。
料金もインターネットで検索しているよりも半額近く安く、ボロボロのタクシーでも目的地に着ければ良いかな?と思い、予約をしておきました。
ほぼ旅に出かけるときには、ガイドブックも買わず、何も学ばないまま行くという2人なので、今の時代は、どこでもWIFI環境もあるだろうとのんきにしながら、1週間の旅行の3時間前ぐらいに、暑いのか寒いのか分からないまま、傘とかも必要かどうか分からず、スーツケースに詰め込んで行くことにしました。
空港近くに車を止めて、そこから、送迎してくれる人に空港まで送って貰い、スーツケースを車から降ろすと、「ヨルダンはビザが必要だよ。だから、ヨルダンパスとか先に購入して置くと良いらしい」と言われて、マイケルも私もパニック、「空港で買えないの?」と、聞くと、イギリス人のその人は「僕は行ったことがないから、奥さんが行って、色々と大変らしかったらしいよ。」と、キプロス人の奥さんとマイケルが話し、「どうする?」と、聞かれて、私は「ビザの事は日本人のブログとかでは触れていなかったし、現地で大丈夫ではないのか?」と、言って、飛行機に乗り込みました。
パフォスの気温は夜でも30度以上だったので、炭酸飲料を機内で飲んでいたら、着きました。
1時間ちょっとで、意外と早く着きました。
アンマン国際空港は広くて綺麗でした。
イミグレに行き、マイケルはビザを購入しました。
日本のパスポート保持者はビザが無料と、驚きました。
その後、荷物を取りに行き、空港にお迎えに来ているハイヤーの運転手さんと会い、ペトラへと向かうことになりました。
既に、午後10時半ぐらいで、マイケルは助手席に座りました。
ボロボロの車かと思いきや、新車らしく、とても綺麗で、この車で空港からペトラまで、3時間半を行くのに掛かるガソリン代の方が高いのではないか?と、思うほど、ドライバーさんは「ペトラから来ました。3時間半待っていました。」と、笑顔で対応してくれました。
車の中でも、WIFIが必要ならば、使えると言われて驚きました。
夜だったので、周りがどんな風景かも分からず、29歳のヨルダン人のドライバーさんは、英語がある程度話せたので、色々と話しをしながら、途中、トイレにも行き、真夜中のヨルダンでのドライブをしながら、4時間以上、掛かり、ホテルに行く途中に、夜景が綺麗な場所に連れて行って貰い、漸く、ホテルに着きました。
チェックインをしたのは、午前1時頃でした。
朝一番に、暑くなる前に、ペトラに行きたかったのですが、朝方、午前5時ぴったりに、モスクからチャントが流れて来て、目が覚めました。
マイケルに、「チャントが流れ来てから、一緒に歌っていたよ。」と、言われて、意外と好きなチャントなのでしょう。
目覚ましを掛けないで、眠りについたので、起きたときには、8時頃でした。
夜は温度が10度ぐらいで、毛布が絶対に必要でした。
朝食を食べにレストランに行くと、色々な人種の人達が静かに食事をしていました。
その時点でも、どこへ向かえば、ペトラ遺跡の入口ゲートか知らないまま、バックに水を入れて、ダララダと歩き始めました。
ドライバーさんが言うには、10月は観光客が10倍増えると言われているので、宝物殿は人で溢れていると言っていました。
ビジターセンターで、チケットを購入しました。
予想はしていましたが、2人で2日間分とペトラナイトも含めて、36000円ほどでした。
1日分と2日分の違いは、500円ほどですが、ペトラナイトに行くには、入場チケットが必要になるので、同じ日でなければ、どうしても、数日間有効のチケットを購入する必要があります。
ペトラ遺跡は1985年以降、ユネスコ世界遺跡に登録され、2007年7月7日、ポルトガルのリスボンで、新・世界七不思議の1つに認識されました。
ペトラはギリシャ語で、「石」と、言う意味があります。
日本人のブログでは、岩や崖とか、色々ありますが、小さい石も大きな石も「ペトラ」です。
多分、アフロディーテの生まれた場所がペトラ・トゥ・ロミウと言われていて、ペトラを英語で岩と言っているため、石から岩になっているかも知れません。
さて、そんなペトラの歴史に触れてみましょう。
古代都市ペトラがどの時代に建造されたのかはっきりしないままらしいです。
紀元前1世紀以降には、乳香、没薬、香辛料などの貿易で富を蓄えたネバタイ王国の首都として、ペトラは歴史に示されています。
ローマ帝国に併合された後も、ペトラは繁栄したそうです。
しかし、363年に発生した大地震により、ペトラは壊滅的な被害を受けた後、その頃、貿易路が変わり、ペトラは没落した後、ペトラの町も衰退したと言われています。
その後は、地元のベドゥイン以外には忘れさられた遺跡となっていました。
1812年に、スイス人探検家によって、ペトラ遺跡を再発見されることになります。
それまでは、ベトゥイン以外は、ペトラ遺跡に入ることが出来なかったらしく、スイス人の探検家がベトゥインを説得して、ペトラは魅力的で美しい古代都市として、世界の人々、特に、西欧の人々の知ることになって行きました。
ペトラ遺跡の宝物殿を一躍有名にした映画があります。
インディアナ・ジョーンズで、この巨大な宝物殿を撮影に利用したこともあり、ペトラ遺跡と言えば、この場所になります。
ペトラの町には、神殿や劇場もあり、ローマ帝国の併合後には列柱道路、また、ビサンチン帝国の影響での時代には、修道院が建設されています。
広大な場所で半日や1日では、全てを見て回ることは出来ないでしょう。
すべてをロバや馬に乗らないで歩くとなると、体力が入ります。
夜は気温が10度でしたが、日中は30度ぐらいになっていました。
日陰にいれば、それほど暑くなかったです。
宝物殿辺りで写真を撮っていると、ベトゥイン人の若い男性や子供に声を掛けられます。
マイケルは写真が撮りたいので、徒歩ですべてを廻りたい派ですが、私はラクダとかに乗りたい派なのですが、驚くほどの値段を吹っかけて来るので、適当に断っていました。
しかし、何度も、何度も、同じ人に、「ロバに乗って、修道院に行かないか?」と、声を掛けられている内に、私がロバと一緒に写真を撮っていると、「ロバに乗って、上まで行こうよ。安くするからさぁ。」と、言われて、値段を聞くと、エジプトでラクダに乗ったときよりも高い値段でしたが、乗る事にしました。
マイケルが乗ったロバと馬とのハーフは賢そうな風合いでした。
私の乗ったロバは、どうやら、この馬に負けまいと対抗心があるのか、人が歩いているところでも、押しのけて登って行くため、ハラハラドキドキでした。
何度も訓練されているのでしょうが、時間内に850段の階段というより、石、石の連続で、綺麗に整備されていないので、もしも、ロバが一歩でも、階段を踏み外してしまうと、振り落とされて崖へと落とされてしまうかと思うと、ジェットコースターよりも心臓に悪いと思えるほどの勢いでした。
それに、兎に角、人を押しのけて登ろうとするので、何度も他の人に謝り続けることになりました。
喉が痛くなるぐらい、謝り続け、行き成り、動かなくなったので、停留所だと分かりました。
一緒に来ていたベドゥインの若い男性は、毎日、何度もこの階段を上がり下りしているのかと思うと、感嘆してしまいました。
やっと、ロバから降ろして貰い、徒歩で修道院に行くのですが、足ががくがくして、歩くのが困難になりました。
エド・ディルという修道院に到着しました。
ナバタイ王国最後の王ラベル2世の治世に建造された修道院には、背後部の壁面には十字架が刻まれました。
それが、修道院の名前の由来だそうです。
ペトラには、教会もあります。
ペトラで物を売ったり、ロバやラクダなどに乗って案内してくれる人は、ベドゥインで、風貌がジョニーデップ似で、ヨルダン人とは顔が異なるので、その背景には、サウジアラビアから難民として、ペトラの町に住み着いたらしく、鼻筋の通っていて、ハンサムな遺伝子なのでしょう。
英語も完璧に話すことが出来るので、「どこで、英語を勉強したのか?」と、訊ねると、「観光客から」と言っていました。
以前は、ペトラ遺跡の洞窟辺りに寝泊まりしていたそうですが、その後、政府がペトラから少し離れた場所に家を建て与え、住んでいるそうです。
子供たちの姿が気になったので、学校には親が行かせず、行ったとしても、数時間で家に帰らせ、観光客に物を売ったりしているそうです。
学校に行かせる時間が特に、ピークシーズンでは勿体ないと言っていました。
修道院から降りて来る時は、徒歩で帰るからと言ったのですが、ロバたちも待っているからと、言われ、降りるときは、登るときよりも、更に怖く、すべらないか、また、他の観光客を押しのけて、スタスタと行くのですが、心臓に悪い体験をしました。
宝物殿まで、ロバに乗って帰りました。
宝物殿辺りは、太陽が遮断されているので肌寒く感じ、夕方近くになって来たので、その日は、ペトラ遺跡を後にしました。
夕飯探しに困りました。
マイケルも私も中東の香辛料は苦手で、マイケルは和風ベジタリアンなので、魚は食べるのですが、肉料理はダメで、豆系も香辛料が強いと、食べられません。
ホテルのレストランを見たのですが、ヨルダン料理過ぎて、朝ごはんと同じような感じで、止めました。
うろうろと、近所のレストランを見て回りましたが、肉料理ばかりだったので、他のホテルで食事をすることにしました。
バイキングで料理は豊富なのですが、サラダにも肉が含まれているものが多く、野菜スープとトマトとレタス、デザートはカラフルで美味しかったです。
外国人の観光客が出入りするところでは、お酒も支給してくれます。
ただし、値段は欧州の2倍から3倍は覚悟した方が良いです。
イスラム教徒はお酒を飲まない代わりに、タバコや水タバコを吸っています。
タバコも安い様子ですが、吸わない人に取っては、レストランやカフェでも隣で座れてしまいます。
その日は、疲れたので早く寝ました。
同じ時間になると、モスクから聞こえて来るチャントで一度、目を覚ましました。
うとうとしていると、また、大きな音が流れて来ます。
アラームセットをしていないので、7時半ぐらいに起きて、身支度を済ませて、レストランに向かいました。
初日にある程度、回ったのですが、他に行くところもないので、ペトラナイトも行く予定でいたので、ゆっくりと、ペトラ遺跡にあるカフェでお茶をしようと思いつつ、シークを通り、宝物殿に行くと、前の日に、「こんな写真撮れるよ。」と何度も近づいて来たベドゥインの男性、マイケルも「行かないから・・・。」と何度も振り放していましたが、交渉が上手いのか、「安くするから・・・。」の言葉に乗せられて、行くことに、自分達で行けるからと言うと、「ここに行くには、僕たちのガイドの許可が必要だから、そこへはいけないよ。」と、言うので、「どうして?」と、訊ねると、「僕たちの領域だから・・・。」と、答えられました。
根負けしたので、「分かった。行くよ。」と、言われて、通されたところは、何と鉄格子が壊されたところで、普通に、階段を登って行くのかと思いきや、岩、石、階段らしいものはなく、背丈よりも高いところによじ登る、そして、スライドして降りたり、登ったり、塀みたいになっているところもあり、絶対に無理だと思えるところもありましたが、手を引いてくれ、マイケルにも押され、よじ登り、10分で行けると言っていましたが、よろよろしながら、30分以上は掛かっていました。
到着すると、もう、凄い迫力で宝物殿を見下ろすことが出来ます。
写真をスマホで撮影したいたら、マイケルに、そこは危ないからダメと言われて、安全な場所に移動することになりました。
一歩間違えると、奈落の底に落ちてしまうことになりそうでした。
そんな最中に、フランス語を話す若い男性2人が到着、1人は崖っぷちで写真を撮って貰っていましたが、もう一人は、私が座っていたかなり安全な場所でも、「絶対に無理!」と、友人と言い合いになっていました。
もう一人は、片足で立って、背景が宝物殿で、嬉しそうでした。
その後、カップルがガイドさんにこんな感じで写真を撮って貰っていました。
足が長くないと、この体制で写真は撮れないと確信できるほどです。
座って汗を拭いていると、足をふらつかせた中国人の女性とガイドが到着しました。
行き成り、私を見た瞬間、「どこから来たの?」と、聞かれたので、キプロスを知らない人もいるので、「日本から」と、応えると、「この人がガイドさん?」と、マイケルを指さして聞かれたので、「いや、主人です。」と、答え。そのまま、ガイドさんに崖の近くに連れて行かれて、写真を撮られていました。
すこし涼んだので、降りる事にしました。
同じように、よじ登ったり、降りたりと、Tシャツもジーンズも赤い土だらけになりました。
これを一日、1回でも遣れば、身体全体の筋トレになりそうだと思えるほど、辛かったです。
すこしチップも渡し、その後、また、お決まりのロバやラクダに乗れ乗れ攻撃が始まりました。
足をふら付かせながら、ゆるゆると歩いていると、先ほど会った中国人がロバに乗って、「ハロー」と、声を掛けられました。
その後、初日に美味しかったので、ザクロジュースを涼しいところで飲んでいると、また、ロバに乗って修道院まで行って来たのか、中国人女性がシーク方面に向かっていました。
彼女曰く、「ペトラは3時間だけなの~」と、言いながら、通り過ぎていました。
私たちは、列柱道路、ニンファエウム(水の妖精の泉)、王家の墓、大神殿などを見て回り、夜にもペトラに帰って来るので、早めの夕飯を取ることにしました。
外国人がビールを美味しそうに飲んでいるので、その場所で軽くスナックを食べることにしました。
私はコーラとチキンを食べることにしました。
マイケルは、チーズサンドイッチとビールを飲むことにしました。
コーラは甘くて、炭酸が抜けている感じでした。
マイケルは欧州でいうサンドイッチでなく、コッペパンに、チーズがトッピングされた物で、驚いていました。
給食で長い間食べ続けたので、私も苦手です。
マイケルはコッペパンが苦手で、チーズを摘まんで食べていました。
この量で、料金は、7000円ほどでした。
欧州でも、2000円ぐらいでしょう。コーラの缶がそのまま出て来て、800円ぐらいでした。
夜は寒くなると思い、冬用の服に着替えにホテルに帰りました。
ロッククライミング級で崖から見渡す宝物殿とすでに、2日間で歩き回ったため、筋肉痛、また、歩いて帰り、「夜は、あの馬に乗ろか?」と、言いながら、時間前に入場して、またも、宝物殿まで歩いて行くことに、あの馬車は利用できず、歩くことになりました。
キャンドルが道端に敷かれており、幻想的で綺麗でした。
やっと、宝物殿に到着し、行き成り、暗闇で座った途端に、顔も見えないまま、「早く、早く」と、急かされて、お茶を配って貰いました。
その時期のイベントで異なるのでしょうか?
1人の男性が歌を歌い、朗読したりしていました。
その後、目を瞑るように言われ、「願い事をして、目を開けて下さい。」と、言われて、目を開けると、宝物殿がLEDライトで色々な色に変わりました。
LEDライトが利用される前は、どんな感じだったのでしょうか・・・。
30分ほどで終わり、また、ホテルまで歩いて帰ることに、両足に豆が出来ていました。
身体も腰、手足も、筋肉痛になりました。
きっと、その日は、本当に疲れていたのでしょう。
午前5時になっても、目を覚まさなかった様子です。
ゆっくり起きて、朝ごはん、ほぼ、食欲がなく、ピタパンとひよこ豆のフムスばかり食べていました。
ペトラ遺跡から死海まで3時間ほどと言うので、のんきに11時頃にタクシー運転手の来て貰っていました。
高速道路ではなく、違う道を通ってくれているらしく、ヨルダンは広いということを実感しました。
また、ペトラはあの独特なバラ色の石で成り立っているのだと感心しました。
他は白い砂や石で出来ていて、山らしいところもなく、暑かったです。
死海のホテルに行く前に、セント・ジョージの教会に行って貰うように頼みました。
行き着いたところは、セント・ジョージでなく、ネボ山と言うところに連れて行かれました。
モーゼが神から授かった「約束の地」を見下ろしながら息を引き取った場所があります。
エジプトのファラオに虐げられたイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出し、彼らを約束の地カナンへと導いた預言者、モーゼは、昔、神に背いた罰のせいで、カナンの地へ足を踏み入れることは出来ませんでした。
このネボ山から、約束の地である、「エルサレム」を見渡すことが出来ます。
ネボ山の頂上には、4世紀ごろから教会が作られるようになったそうです。
そこで、ビザンチン時代のモザイクが多く残っています。
ヨルダンでは、モーゼ、ユダヤ関連は無いだろうと思って頂けに、タクシーの運転手に連れて行かれて、驚きました。
シナイ山にも、行き、負の遺産であるアウシュビッツも行きました。
まだ、モーゼとはご縁が続くのでしょうか。
死海のホテルには5時頃に着きました。
海側のお部屋に通して貰い、プールや死海で泳げる時間を訊ねると、1時間ほど時間があるので、急いで、死海に向かって降りて行きました。
イスラエル側で死海は、ソルトロックで足をマイケルは切ってしまったので、念のために、専用の靴を履いてヨルダンの死海に入りました。
ヨルダン側は、イスラエル側とは異なり、透明感がなく、泥と灰色の石でした。
周りには、日本人観光客も多く、お決まりの本を死海でぷかぷかしながら読みポーズを写真に撮っていました。
私は、スマホを持って行くと、落としてしまう気がしたので、1枚も死海での写真は撮りませんでした。
死海でのホテルは高級でもありませんが、とっても高く、スーパーマーケットもなく、夕飯込みで泊ることにしていました。
食べる物があまりなかったので、カラフルなケーキばかり食べておりました。
マイケルは1本ビールを頼んでいました。
1本、2000円ほどです。
びっくりするほど高いです。
売店もないので、お水もバーとかで1本600円ほどしました。
スイス並に何でも高いので、本当に驚きました。
次の日も、夕方まで時間があったので、タクシー会社に連絡して、セント・ジョージ教会に行くことにしました。
死海から車で50分ほどの場所に近づくと、建物の雰囲気が変わって来ました。
見慣れた風景の建物は、ビサンチン時代に建てられたものでした。
教会の敷地内は、とても静かでした。
セント・ジョージ教会には、世界で一番古いモザイクで作られたパレスチナ周辺の地図が床に保存されているのが有名です。
今のエルサレムになります。
以前、イスラエルに行ったときに、ヨルダン川の魚の瀬戸物を買ったのですが、空港でスーツケースを開くように言われて、収めるときの具合が悪かったのか、割れていました。
魚のシンボルは、生命の樹とともにキリストを表わす2匹の魚で有名です。
帰る途中に、モザイクアトリエに連れて行って貰ったので、大き目なのが一番好きな魚で、イスラエルで見たモザイクと似ていたのですが、とても高く、小さめのモザイクの魚はシシャモのように、やせ細って、これはちょっと違うと思い、思い切って、大きい目なのを購入しました。
ホテルに帰り、夕日が沈む前に、死海で再度、ぷかぷかすることにしました。
泥を身体中に塗り込み、しばらく経って死海で洗い流すときに、目に1滴の死海の水が入り、目が痛い、本当に痛い・・・。しばらく、痛みと戦いながら、タオルで拭いて、ぷかぷかして、シャワーを浴びて、あまり期待していないディナーに行くことにしました。
マイケルは、ほぼ、スープぐらいしか食べる物が無かったので、スープを美味しそうに食べていました。
私も食べ始めると、スープの中に、牛肉があったので、それを教えると、中断していました。
野菜のグリルとトマトを食べていました。
行き成り、動作が凄いのでどうしたのか聞くと、緑色の唐辛子のグリルを口にしたらしく、そんなに辛いのかと、私も1センチほど口にしてみました。
もう、言葉が出て来ないぐらい辛かったです。
甘い物ばかり食べて、甘い砂糖入りの紅茶ばかり飲んでいたので、私は、痩せるどころか太っておりました。
マイケルは、1週間で2キロ以上痩せていました。
死海からアンマンに移動しました。
ペトラ遺跡を見た後のアンマンでの観光はあまりないです。
スケールが小さいため、観光客がパスするぐらいです。
マイケルはヨルダンに行く機内で、砂漠の話をするので、「言ってくれれば、変更したのに。」と、言うと、「好きじゃないでしょう?」と、聞かれたので、アンマンで市場に行くよりは、砂漠で夜空を見たかったと言い返すと、ちょっと、残念そうでした。
観光箇所を廻っていたら、チケット購入場所で、若い西洋人の2組のカップルから「昨日、死海で会いましたね。」と、言われて、「へぇ?」と、返答に応えていると、彼ら達はヨルダンに2週間いたそうで、ほぼ、砂漠にいて、その後、死海と、アンマンに1泊滞在して、アムステルダムに帰ると言っていました。
マイケルが「砂漠では何をしていたの?」と、訊ねると、「毎日、水パイプを吸っていたわ。」と、オランダ人の女性が言っていました。
とっても、行きたかったような顔つきで、話していました。
アンマンは市場に行ったり、モスクに行ったりしました。
本当に行くところがなく、カフェもタバコの煙や水パイプの煙でもくもくしているので、オランダ人のカップル達のように1泊でも十分かも知れないと思いました。
ヨーロッパの方が安く感じるというほど、ヨルダンは物価が高い場所でした。
もちろん、中東料理が好きな方とかには、問題ないのでしょうが、独特の匂いは、なかなか、微妙です。
とっても、楽しかった旅ですが、食べ物はイスラエル側では、パンプキンスープ、ベーグル、スモークサーモン、サラダも豊富でした。
でも、異なる文化を体験出来たことは良かったです。
長い旅行記をお読み下さり、ありがとうございます。
ありがとうございます。
※旅の写真は、〈霊界サロン☆カズコ〉にて、ご覧ください。
ありがとうございます。
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