チベット・スピリチャアル・リーダー♪
こんにちは〜! メルマガを既に今日、読んでいる方はこんにちは〜!アゲインになります。 少し涼しくなって来たので頭の回転が良くなって来たので・・・。 サボっていた、ギリシャ語の勉強もまたやらなきゃ〜!と思っています。 死ぬまでマスターは出来ないのは分かっちゃいるけど・・・。 勉強しないとね〜!>−< 昨夜はマイケルが遅くまでセカンドの仕事に出かけたので・・・。あまり見ない番組が始まる前にチャンネルを変えようかな?と思ったら、ダライ・ラマとの対談だというので・・・。 見てしまった。 30分間の間にかなりきわどいつ込んだ質問にも笑顔で嫌な顔をせずに答えていた。 チベットの問題は未解決だ。 世界には英国、アメリカ、フランスに関連すると国政が悪くなり亡命しないといけない状態になる国も多い。 それでは今日はダライ・ラマを知らないというか、お顔は見たことあるけど? どうして?ダライ・ラマはチベット人であるし、チベット・スピリチャアル・リダーとされているがチベットにいないか歴史と今日までの経緯をお話しましょう。 ご存知の方はスルーして頂いても良いですよ。 ^_^ ======================= ダライ・ラマ14世(本名テンジン・ギャツォ)は1935年チベット東北部アムドに農家の子として生まれた。2歳のときに先代13世の転生霊童として認められ、1940年に第14世として正式に即位した。 チベットの歴史は2000年の昔、初代国王が諸部族を統合したことにはじまると伝承されている。 7世紀に伝わった仏教は、その後独自の深化と発展を遂げ、チベットの精神的支柱になるとともに、周辺諸国にも大きな影響を与えた。観音菩薩の化身とされるダライ・ラマを、宗教と政治の両面において最高指導者とする体制が確立したのは17世紀である。 19世紀、外国に固く門を閉ざし強固な鎖国政策をとっていたチベットに、インドから東アジアへの進出をねらうイギリスの目が向けられた。イギリスの影響力の強まりを恐れた清朝は、1910年首都ラサに侵攻、ダライ・ラマ13世はインドに亡命した。 その後は、中華人民共和国が樹立されると、人民解放軍は1950年「帝国主義者の圧政からチベット人民を解放するため」チベットへ進攻し、軍事管制下に置いた。 1959年3月10日チベット民衆の抵抗運動は頂点を極めた。ダライ・ラマ(現在の14世)が中国側に拉致されることを懸念した民衆は、ノルブリンカ宮殿を取り囲み、ダライ・ラマの身を守るとともに、チベットの独立や中国の撤退を訴えた。その数はラサ人口の半分にあたる3万人にのぼったといわれる。3月19日中国軍はノルブリンカ宮殿への砲撃を開始、多くの死傷者を出した。 一方、ダライ・ラマは砲撃の直前にひそかにラサを脱出。インドに亡命政府を樹立した。10万人以上のチベット人がダライ・ラマを慕い、中国の弾圧を逃れるために、インドやネパールに脱出した。 余談になりますが、ダライ・ラマの先生と言われていたオーストリア人の方の実写みたいな映画があります。ブラピの映画ですので、興味がある方は見て下さい。 チベット政府の発表によれば、中国軍の進攻以降、チベット総人口の5分の1に当たる120万人もが犠牲者となり、多くの僧院・寺院が破壊された。 近年は中国政府の入植政策によりチベット人の民族的独自性が危機に瀕していると訴えている。また森林の乱伐や核廃棄物の投棄による環境破壊も懸念されている。 独立運動は徹底した弾圧を受け、非暴力のデモばかりかダライ・ラマの写真の所持でさえ取り締まりの対象となっている。政治犯に対する拷問も多く報告されている。 チベットと中国の業と言えるでしょうか。 しかし、ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者として、人々を救済するために、涅槃に入ることを求めず、輪廻世界に生まれ変わる観音菩薩の化身であると信じられている。「ダライ・ラマ」とはモンゴル語の尊称で「智慧の海」という意味である。 1989年に、一貫して非暴力平和的手段でチベット問題の解決に取組んだことが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。 また受賞理由には環境問題への取組みも挙げられている。 ダライ・ラマもマザー・テレサも問題解決の為に自分も参加して手を汚している。 歴史に残る聖者はキリストもブッダそうだが、自分も自ら中道の世界にて自分の信じること(天命)をやり遂げる覚悟と共に生きているところは本当に言葉では表現出来ないです。 ダライ・ラマは偉大な宗教指導者として、世界的に尊崇を集めているスピリチャアル・リーダーと言っても過言ではないだろう。 読んで頂き、ありがとうございます。 ありがとうございます。 *とっても似ているとは言えないが、私が描いたダライ・ラマ様です。
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