なぜ?祈るのか ♪
こんにちは〜!
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
夕方は熱が出てしまいダウンして、日課のニャ子先生へ餌を持って行けませんでした。
これからは大きくなって来ているので自活でも少し頑張って貰いたいと願っております。
さて、昨日書いたブログがちょっとブッタの有難いお話でした。今日も真面目で良いでしょうか?
本当はメルマガに書こうと思ったのですが、ここのブログの良い点はコメントをして頂いた方の意見も参考になるので、一方通行かな?と思いながら書いているときもあります。
誰が読んでいるか分からないままにて、書いて来ております。
真面目過ぎても読む方もテスト勉強みたいで嫌だわ〜!と思うでしょうが、やはりスピリチャアルを書くときは真面目モードになってしまいますね。
では、真面目モードの始まりです。←紙芝居みたいに表現したいのですが・・・。^0^
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何の為に祈るのか ♪
祈りは自分または他者の為の存在の幸せの実現のために、見えない世界に働きかける手段として行なうものだと通常は教えられて来ています。つまり、祈りはある目標を実現するための「手段」「方法」だということです。このブログではこのことの結論づけは致しませんが、祈りに手段的要素があるのは確かです。
では「祈り」という手段、方法を使って、自分または自分の大切に思う他者の幸せのために実現させたいもの、つまり祈りの目標にはどうのようなものがあるでしょうか。
打出の小槌を持っている大黒様に「おまえの願いを叶えてあげましょう。」と聞かれたらこんな感じのことをお願いするでしょう。例としては「家内安全」「商売繁盛」「無病息災」を初め、「病気が治りますように。」「受験に合格しますように」「愛する人と結ばれますように」「試合に勝ちますように」といった内容、あるいは「サッカースポーツ選手になる」「大統領になりたい。」「セレブになりたい」なども祈り(願い)を告げるでしょう。
中には、世界の平和を願ったり、この地球の環境汚染が改善されることを願う祈りもあります。この願いや祈りは人の心のレベルに応じて、祈りの目標のレベルも違ってくるのです。
世界の優れた宗教が教える最高の祈りは、「他人のために祈れ」「全体のために祈れ」と言っています。他には「日々の生活を祈りそのものとせよ」という教えに行きつきます。つまり、この世にて、日常生活の中で「神さま」の生き方を実践尚且つ、経験せよということです。
瞑想したり、お経を唱えたり、護摩を焚いたり、‥‥といった特別の祈りのスタイルをとらなくても、日々の生活のなかで「神さま」の意思と同じ様に生きていれば、それがそのまま祈りになるということです。波動の法則で考えれば理解しやすいかもしれません。祈り(願い)を効果的にするためには「身・口・意」にて活用することが大事です。これは祈りの波動をパワーアップさせるための方法と言えるでしょう。
その波動が見えない世界に影響を与え、それに見合うものを引き寄せてくるということです。その引き寄せてくるものが、お金や地位、名誉などの世俗的なものであれば、その祈りを発信した人の波動はそのレベルということになります。
つまり、祈りの目標として何を選ぶかによって、私たち人間の波動のレベルがどの程度のものであるかを知ることができるということです。このことを理解して頂くために、仏教の中でもひときわユニークな内容となっている「法華経」のなかに、「信解品(しんげほん)」という1章があり「長者窮子(ぐうじ)の喩」があります。
こちらを読んで見て下さい。
家出をした一人の若者が放浪の旅を続け、乞食になっていたところ、今は大金持ちとなっている父親がそれを見つけ、自分の財産を譲ろうと考えます。しかし、若者はその大金持ちが自分の父親であることに気づかず、恐れをなして貧民窟へ逃げ込んで暮らします。
父親は、恐怖心を与えないようにと汚れた服装に着替えて若者に近づき、「どうか私を父親がわりにするがよい。私は年寄りだし、おまえは若い。おまえには悪意も、不正も、不誠実も、傲慢も見られない。私はおまえが気に入った。おまえは私の実子と同じだ」と励まします。
やがて、大金持ちは自分の臨終の時にあたり、この若者を枕元によび、土地の有力者たちを集めて、「この子は私の実の子です。私の財産はすべてこの子に与えます」と宣言します。
若者は「私はもともとそんな気持ちはなかったのに、いまこの宝が自然に私のものとなった」と気づくのです。
21世紀に突入して、新しい時代「ニューエイジ」に今私たちは生きています。地球にいる人類はこの「信解品」に出てくる若者の位置に立っていると言えるかも知れません。つまり、「神さま」の財産(この世では超能力と言われているもの)をそっくり引き継げるところに来ているということです。
長い歴史の中にて、私たちはこの若者のように、自分が「神の子」であるという自覚が持てず、その力を過小評価してきました。そのため、私たちの外にある「みえない世界」の中に「力」が秘められているという認識から、その「見えない世界」に向かって「祈り」「願う」という形で願い事をしてきたのです。
しかしながら、「見えない世界」はあくまでも「見えない世界」です。一部の霊能者、霊媒師でなくても今の時代は波動レベルにて生まれたときからすでに私たち自身の中に備わっていた心の力」を思い出すかどうかでしょう。
メルマガに以前書いた中にてキリストのたとえ話にて「放浪息子」と同じ意味があるかも知れません。
私たちは「見えない願い」を探すためにこの世に旅に来たのです。その深い意味は実は私たちの心の奥深くに最初からあったというわけです。私たちの願いを実現してくれる力は、実は私たち自身の中に備わっていたということに「気づく」必要があるのです。
「神さま」が今の私たち人類に望んでいるのはそのことに対する「気づき」であると思います。
*読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。
【うらを見せ おもてを 見せて 散るもみじ】
良寛辞世句で〜す! ^0^
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