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  • カズコ

いつ行っても楽しめるギリシャ旅行記


12年振りにギリシャのロードス島に行くことになりました。

以前行ったときは、ドイツ人観光客が目立ちましたが、ここ最近は、イギリス人に人気の観光地らしいです。

ギリシャで4番目に大きな島のロードス島ですが、キプロスからは、10月の初旬まで直行便が飛んでいたのですが、姪っ子の結婚式は10月14日だったので、キプロスのラルナカから、アテネ経由でロードス島に行きました。

パフォスを夜中の1時に出発し、アテネ経由で1時間待ち、ロードス島に到着したのは、午前10時頃でした。

ホテルに着いた時間が早かったので、まだ、お部屋の掃除がされていないということで、荷物をフロントに預けていたら、マイケルの義理の弟の親戚たちがエレベターから、ぞろぞろと、降りて来ました。2004年のオリンピックのときに、クレタ島に行き、そこで、一緒にランチを取った親戚たちで、十人ぐらいの人達と挨拶をして、眠気覚ましに、旧市街に行く予定で歩き始めました。

マイケルも私も何もリサーチせずの今回の旅行でしたので、ホテルを出て、ビーチを歩いていると、天使の銅像を見つけ、さらに、正教会を見つけました。

お昼時だったので、ランチを取ることにしました。

ヘブライ語の文字があったレストランでギリシャ料理を取ることにしました。

なぜか、どこに行っても、ユダヤ関係の場所に引き込まれてしまうのか、地図さえないのにと思いつつ、後で、話に聞くところ、1557年に建設されたカハル・シャローム はギリシャ最古のシナゴーグであり、ユダヤ人たちの活動のピークだったそうで、1920年代には、ロードス島の街の3分の1ぐらいがユダヤ人だったらしいそうです。1940年代には、さまざまな民族的背景を持つ2000人ほどのユダヤ人が住んでいた様子ですが、ドイツによるホロコーストによってそのほとんどが移送されたそうです。第二次世界大戦後、カハル・シャロームは海外の支援者の手によって再建されたが、ロードス島に普段暮らすユダヤ人は少ないため、戦前のような宗教行事は行っていない様子です。

地元のビールを飲みながら、猫と戯れていたら、時間があっと言う間に過ぎて行きました。

義理の弟から連絡が入り、連絡せずにホテルにすでに到着していたので、驚いていました。

次の日に結婚式を控えているので、挨拶に来るというのですが、「無理しないで下さい。」と、言っても、最終的に、ニコシアからの甥っ子がテッサロニキ経由で空港に迎えに行って、ホテルに送って来たときに、5分ほど話すことになりました。

甥が、お腹が空いたということで、同じ道を通り、またまた、ギリシャ料理とビールを飲むことになりました。

お腹一杯になり、ホテルに帰る途中に、エバンゲリスモス正教会でコンサートが行われていました。

終わりぐらいだった様子でしたが、ブックマークとパンフレットを貰いました。

そのパンフレットのキリスト、聖母マリアのイコンは見たことがありました。

そこには、フェオファン・グレク(Theophanes the Greek 1340年 – 1410年, ロシア語: Феофан Грек, ギリシャ語: Θεοφάνης)は、ビザンティン(東ローマ帝国)からロシアに移り住んだギリシャ人で、ロシアにおいて最も偉大なイコン画家の一人であり、アンドレイ・ルブリョフの師としても知られていると書かれていました。

ぶらぶらと歩いて帰り、体を休めることにしました。

朝、起きて、朝食を取りに行くと、ニコシアからの姪っ子と義理の姉たちとレストランで会いました。

彼女たちは私たちよりも、アテネで4時間待ちの飛行機に乗って来たそうでしたが、あまり疲れている様子もなく、「11時頃に私の部屋に来てね。」と、言われて、髪の毛をアップして貰うのに、美容師さんがホテルに来るので、順番が来たら隣の部屋に行くという感じでした。

夜は寒い感じがしたので、ワンピースにするか、ロングドレスにするか迷い、ワンピースにしました。

午後の3時頃に、花嫁と花婿に洋服を着せるというキプロス式の伝統で家から教会に行くことが花嫁の希望だったので、ホテルから、花嫁の新居に車で移動、最初はバスで移動するということでしたが、バスの手配が何かあったのか、義理の弟から電話が来て、「3時半にXXXさんが迎えに行くからね。」と、ギリシャ語で言われて、理解していたが、マイケルがシャワーを浴びているから、掛け直すと言って、電話を切りました。

その後、3時半になり、アテネから来た親戚?の車で、花嫁の新居に行きました。

まだ、メイク中で、着付けをして行く段階までではなく、何だかんだと、2時間ほど経って、花婿の着付けが始まりました。上に行ったり、下に行ったりしていて既に疲れていました。

3人の音楽家が音楽を弾き始めて、花婿に着付けをして行く光景は始めて見たので、楽しかったです。

花嫁の部屋にも音楽家たちが、キプロス伝統の結婚式の音楽が流れたので、マイケルは遠慮していましたが、祝福するのに、紐を三回腰の辺りに回して、両頬にキスして、他の人達も同じようにしていました。

教会に行く時間になっても、花嫁が下に降りて来ず、すでに、大幅に遅れていました。

そこから、車移動で、「どこの教会?」と、聞くと、「エバンゲリスモス教会だ」と言うので、一緒に来た人達の車に乗せて貰って移動しました。

教会の外には凄い観光客で一杯、私とマイケルは、観光客と同じように待っていたら、義理の弟に教会の中に入るように指示されて、甥っ子たちは最初の列の椅子に座っていましたが、私たちは外で観光客のように待っていたので、他の招待客で一杯だったので、真ん中の席に座ることにしました。

ギリシャ式の結婚式が始まりました。

最後に、2つの大きな輪っかを頭に乗っけて、テーブルを3回周り、祝福の言葉を頂きます。

またまた、私たちは一番最後に入り、一番最後に出るという感じでした。

他の人達は、祝福のお菓子を貰うのに、早く出ていたそうです。

義理の姉はキプロスからご祝儀を預かって来た人達用に、凄い、これから、売りに行くのかというほどの量を大きな袋だらけでした。

花嫁たちが、教会から出て来て、私たちはまたまた、ゆっくりしていたら、今度は、教会から40キロ移動のホテルへ移動することになりました。

もう、この時点で、夜の9時頃でした。

花嫁、花婿が到着したのが、午後10時頃だったと思います。

この時間からの食事は辛いです。

コース料理で、最初の前菜と次のギリシャ料理を食べた後は、もう、無理でした。

ギリシャワインを注いでくれるので、ごくごく飲んでいると、巨漢のギリシャ僧侶が、マイクを握り、キプロスのお祝いの歌を歌い始めました。

この僧侶の方とは、どこかで、会った気がするのですが、キプロスに帰って、姪っ子から電話があり、話によると、サプライズだったらしいです。

歌った後に、直ぐに、出て行こうとしたのを私は呼び止めて、写真を撮って貰いました。

姪っ子曰く、誰とも写真を撮らなかったらしく、私だけの写真のみだったらしいです。

その後は、もう、踊る、飲む。が、続きました。

義理の弟、コスタがテーブル席に遣って来て、私にワインを注いで貰い、一機飲みをすることになりました。マイケルには止められましたが、まぁ、お祝いの席だったので、飲みました。2杯続けて飲んだら、姪っ子も遣りたかったのか、3杯の一機飲みは、人生で初めてでした。その後、知らない人達からも誘われて、一緒に踊ることになり、もう、シンデレラタイムを過ぎていたので、眠りたいと願い、隣の席の人達も同じホテルに帰るので、1時半頃に、まだまだ、朝方まで続いて行くパーティ会場を後にしました。

次の日、朝食を取っている姪っ子に聞くと、彼女たちは2時半のバスでホテルに帰り、6時頃まで、続いたらしく、特に、3時ぐらいからが盛大だったらしいです。

ニコシアから来ていた姪っ子たちは、月曜日から仕事があるので、今回は、ほぼ、結婚式だけのために、ロードス島だけでした。

私たちは、13年振りのアテネも行く予定にしていました。

アテネも、マイケルに「どこのホテルに泊まるの?」と、聞かれ、「どこだったかな?」と、アテネに到着して、「この住所だけど、タクシーにする?それとも、メトロ?」と、聞くという、のんびりモードでした。

以前は、誰かが迎えて来てくれた記憶がありました。

義理の妹の家に泊った記憶がありました。

多分、花嫁の姪っ子が、迎えに来た覚えがあります。

今回は、ロードス島のホテルは姪っ子が予約を入れてくれていたのですが、アテネのホテルは、シンダグマ広場から近いところに自分で予約を入れたのですが、タクシーで横付けは出来ないらしいホテルということだったので、メトロにしました。

スーツケースを持ってうろうろして、数分後、「この通りだよね。」と、言って、ローレックスの時計屋さんのガードマンにマイケルが道を尋ねると、「ここに行きたいの?」と、聞かれ、「ここはとっても、とっても、遠いよ。」と、言われて、「どれぐらい遠いの?」と聞き返すと、指で示されたところは目の前でした。

スーツケースを置いて、シンダグマ広場に行きました。

動いては行けない、ガードの人達。

以前は写真を隣で取れましたが、最近はダメみたいでした。

その後、アクロポリスまで、歩いて行き、午後6時までに外に出ないといけないらしかったので、その反対の場所の大理石の丘みたいなところに登りました。

ツルツルした大理石をビーチサンダルで歩いている人を見ると、見ている方が怖くなりました。

帰りに、日本食を食べ、お風呂に入りました。

アテネも日中は29度で、ほぼ夏の気温、ちらほらとジャケットを着ている人もいますが、かなり、暑かったです。

次の日も、歩いて、アクロポリスまで行きました。

行くと、長蛇の列でした。

待っている間も、日差しが暑すぎました。

13年前に行ったときの入場料は10ユーロぐらいだったと思います。

今回は、20ユーロでした。さらに、修理中で、近くで写真は無理でした。

それでも、多くの観光客で埋め尽くされていました。

頂上から見る景色は格別でした。

パルテノン神殿は、古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシャ神話の女神アテーナーを祀る神殿とされ、紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われたそうです。パルテノン神殿は古代ギリシャ建築を現代に伝える最も重要なドーリア式建造物の最高峰と見なされているらしく、装飾彫刻もギリシャ美術の傑作と言えるのも頷けます。また、この神殿は世界遺産に認定されています。

お天気も良すぎたので、流行りのインスタグラム撮りで、若い人達が大理石の上で、何度も、ジャンプしていました。

その後、滑った人がいたらしく、働いている人に痛み止めの薬を塗って貰っていました。

どこのコーヒーショップも人で溢れていました。

値段も他のヨーロッパと同じぐらいですから、物価が安いということもなく、また、イメージ的にはギリシャ人は働かないということもなく、話によると、拘束される時間が長い上に、給料は安い感じです。12時間労働は当たりまえですが、給料は安いそうです。

ギリシャ人はそれでも陽気な人が多く、ギリシャ語を少し話すと、嬉しいらしいです。

水曜日に、マイケルのフィルムカメラの調子が悪いので、ホテルから歩いて、7分ぐらいのところにある、ライカのショップに行きました。

水曜日はお店が1時頃に閉まることをすっかり忘れていて、反対側の道に渡り、ふらっと見ていると、タロットリーディングをするお店らしいのを発見しました。

閉まっていたので、次の日に来て、英語で占って貰えるならと思い、次の日に、ライカのショップに行くと、修理するところを教えて貰い、その前に、タロットリーディングして貰えるか、その場所に行くと、アシスタントの人が出て来て、「ここで、待っていて、次ね。」と、言われて、私は待っていました。

マイケルはうろうろして来るからというので、待っていたら、中に入るように言われ、マイケルに電話して、「これから、中に入るからね。」と言って、入りました。

ニューエイジ系の物を売っている様子はなく、リーディングが主みたいでした。

英語で会話が出来るので、タロットリーディングをお願いしました。

コーヒーリーディングも出来ると言われましたが、タロットの方が良いらしいと可愛いアシスタントの方に言われました。話によると、予約制だけど、特別に途中割り込んで、リーディングして貰いました。待っている人には恐縮でした。

最近は、2011年にロンドンでSAGBのアランさんとのシッティングが最後でした。

人生で一番凄いと思った霊能者はSAGBのテリーさんで、いつ行っても、会えることなく、今に至っています。

今回のギリシャ人のタロットリーダーの方は、タロットを沢山使って、色々と見て下さったのですが、とても、良い事ばかり言って下さいました。

逆に、何度も、良い事ばかり言われると、本当?と思ってしまうほどでした。

良い事ばかり言われると、怠け癖のある私にとっては、未来にそんなに良い事があるなら、努力を怠るので、注意することも言って欲しかったです。

また、「あなたは気づいていないけど、あなたは、とてもモテるは、ご主人がいても、他にも男性があなたを慕っているわよ。」と言われも、全然、嬉しくはなかったです。

兎に角、未来は素晴らしいらしいそうです。

今回のギリシャの旅は、良く笑いましたし、さらに、踊る、食べるで、体重が3キロも増加しました。

ありがとうございます。

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